さて、お立ち会い。
SimWorksのもんじゃがこれから書く事は特に珍しい事でも大変な事でもありません。
仕事の休みを利用して、輪行で自転車に乗りに行く普通のライドレポートです。
ただ少し違うのは、事前に面倒な手続きがあるという事ぐらいでしょうか。
その目的地はミャンマー連邦共和国の中部にあるバガンという地域。
アンコールワットやボロブドゥールと並ぶ世界三大仏教遺跡のひとつで、11世紀~13世紀に建てられた大小の仏塔や寺院が1.6km四方の狭いエリア内に3000以上も点在している、ミャンマー最大の仏教聖地であり観光地です。
仕事を定時に終えて関西国際空港へ向かい、バンコクをトランジットして、翌日のお昼にはミャンマーのマンダレーから走り出す。しかも運賃は片道15,000円ほど。
伊豆や四国あたりに走りに行くのとあまり変わらない、距離/時間/お金の感覚で海外を走る事ができるのはもう完全に新しい世界です。国内外を問わず、LCCを使った飛行機輪行ライドは、これから多くの人の”普通のライド“になっていくでしょう。
とはいえ、時空を飛び越えるまでの手続きはやはり大変で、書き出すと長くなりそうなので別の場所でまとめる予定です。
飛行機は一度空港の上を通過し、40km北方にあるマンダレー上空を大きく旋回して北側から滑走路にアプローチした。窓から見えた雨季のマンダレーとザガインの街はイラワジ川が氾濫したのかと見紛うかのような水の多い場所にあり、ちらほらと金色に輝くパゴダ(仏塔)が覗いていて、ミャンマーに来た実感が湧いてくる。
空港スタッフの野次馬に取り囲まれながら自転車を組立てショーを行い、現地通貨チャットに両替、唯一のカフェで馬鹿高いパンを食べて、補給食のチョコレートと水を購入したのち、照りつける太陽と右側通行の道路に面食らいつつライドがスタートした。走りだしの高揚はどこの場所でも一緒だ。
マンダレー市街に向かう空港内道路をUターンし、兵士が寝っ転がりながら警備している裏口ゲートをくぐり抜け、滑走路脇の抜け道へ出るといきなりのどかな農村地帯が広がっていた。
ヤシの木で区画分けされた畑がつづき、一部は広い牧草地になっていて、竹と葉っぱでできた家の横を牛がゆらゆら歩く。農民達は、変なかぶり物をした派手な奴が来たという感じの不思議そうな眼差しでこちらを眺めていた。
水路沿いに続くグラベルの通路を走っていると、牛飼いの少年に呼び止められ、ターン!ターン!と言って指差すので、言われるままにその道を行くと、少し先で元の道は崩落して通れなくなっているのが見えた。彼はどこで英語を覚えたのだろうか。ミャンマーはどこへ行っても人が良い。騙されるような事や嫌そうな顔をされることもなく、何か困っているとすぐに助けてくれる。これはこの国の大きな魅力だ。
どこを向いてもフォトジェニックな風景が続く。写真に撮っていたら全然進んでない事に気付き、カメラの電源を切ってペダルを踏みなおす。
道に左側は牛車の通路になっている。
地図には道の名前も村の名前も出てこないけど、ガレた未舗装路の端にあるスクーターに踏み固められた轍をトレースしながら、多くの村を過ぎ、人とすれ違い、学校帰りの子供達に手を振って挨拶し、牛や山羊や羊や鶏をパスした。
雨季も終わりに近づき、緑の濃い農村エリアの風景も、いくつか時間のレイヤーをかぶせてみると少し見え方も変わってくる。
他国の歴史を詳しく知るには、かなり専門的知識が必要で、例えば海外からのツーリストが日本で近江を走る時に徳川家康と井伊直政の関係を把握する事は困難なように、ビルマのコンバウン朝のアラウンパヤー王がミャンマー中部の平原をどう治世していたのかなかなかイメージがわかない。
一方、強烈なイメージが想起されるのが、先の太平洋戦争の記録だ。
日中戦争で重慶に追い詰めた蒋介石への連合軍の補給ルート、いわゆる援蒋ルートを封鎖するために、イギリス植民地となっていたビルマをタイから進軍した日本軍が制圧する。その後、世界の戦史上最も愚かな作戦とされるインパールでの壊滅的敗戦を経て形勢は逆転し、イギリス軍の掃討をかいくぐりながらタイまで敗走する日本兵。昼間は茂みに隠れ、夜になると隣の集落まで移動する。「負傷や病気で隊からはぐれたら南東へ進めばなんとかなる。」とされていた死屍累々の撤退路-白骨街道の先がまさにこのエリアであり、生死を彷徨う兵士の目にはこの美しい風景はどのように映ったのだろうか。
気温は30℃を越え、けっこう乾燥しているので、水の消費が早い。脱水症になる前にコーラでも補給しようと、(葉っぱでできてない)ちゃんとした建物のガソリンスタンドに寄ってみたものの、ちょっと美人のお店のお姉さんから手渡されたのは、まったく冷たくない「Shark」というレッドブルぽいエナジードリンク。ガソリンはあるけど、冷蔵庫なんて無いよね。。その場で飲もうとしてると、日陰に休憩用の椅子を用意してくれた。チェイズーティンバーデー(ありがとう)!目の前を大量の牛が行進していく(トップの写真)。
読み方の分からないMyo Tharという町に到着。初日はここまでの予定だったが、まだまだ明るいので、ご飯を食べてから先に進む事にした。
外国人が来るような場所では無いので、レストランに入ってもメニューは無いし英語も通じない。ジェスチャーで何か食べ物が欲しいと伝えると、スマホで英語ができる人に連絡してくれてオーダーを聞いてくれた。
1700チャット(170円)ぐらいだった。
ここから先はアスファルトの舗装路。次の街、ミンジャンへ向かう道すがら、地平線の彼方まで続く工場予定地が続くエリアがあった。冗談では無く、本当に終わりが見えない。
軍事政権で経済制裁の対象だったミャンマーが、2015年の選挙で民主化した事により、天然資源が豊富で日本の1.8倍の広さを持つ国土と5000万人を越える人口、中国の1/3とも言われる労働賃金を目当てに、爆発的な経済発展が見込める国として注目が集まっている。その是非は置いておいて、おそらくこれまで体験してきたような牧歌的な雰囲気を味わえるのはあと少しかもしれないので今のうちに見ておこうというのも、今回のミャンマーを目的地とした理由のひとつである。
右奥に謎の超巨大ブッダが立っている未来の工業地帯。
ミンジャンの街は思った以上に大きくて活気があった。若い子達はスマホ片手に砂けむりを上げてスクーターで走り回っている。
マンダレー空港から約100km。完全に日は落ちて、街路灯が無い道は真っ暗になる。新月で満天の星空。道端にはホタルよりもう少しデジタルぽい光り方をする虫がたくさん舞っている。
かなり疲れてきたので、そろそろ休もうとハンモックを張るちょうど良い樹を探しながら走っていたところ、道沿いの大樹によくある給水所&休憩所みたいな東屋を見つけた。どういう用途のものなのか判然としないが、昼間は農民が寝転がっているのを思い出し、そこで寝る事にした。道からは丸見え。たまにトラックの運転手や牛飼いが水を汲みに来るけど、まあ悪くなかった。野宿できるほど治安が良い事もミャンマーの大きな魅力だ。
宿にさせてもらったのはこんな感じの東屋。いたるところにある。
熟睡とはいかないけど、4〜5時間は横になり、明るくなる前に出発。少し走ると世界が青みを帯びつつ朝がやってきた。ゆるいアップダウンの丘がつづく気持ちの良い道を軽快に走る。途中、大きなサソリが死んでいるのを見かけて、あんまり適当に野宿するのも危ないかなと遅まきながら反省する。
地図上では途中にイラワジ川を渡ってパコック―の街へ通じる橋があるようだ。土木好きとしてはどんな橋なのかチェックしに行かねばならない。
後に調べてみると、パコックーのエーヤワディー橋は川幅部分で全長3,499m。手前の高架をいれると6,000mを越えるミャンマー最大の橋らしい。土手から土手の長さで日本最長は埼玉県の荒川で2,537m(ほとんどが田んぼで実際の川幅は30mほど)、海を渡る明石大橋が3,911mなので、まだまだ内陸であるこのイラワジ川がどれだけ大きいかが分かる。
マンダレーからバガンまでは約200km。この橋からバガン滞在のベースタウンであるニャウンウーの街まではあと少し。朝日にジリジリと焼かれながら、ラストスパートをかける。
バガン編へ続く
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